Q.論理的な文章を書く方法を教えて下さい!
A.「整合性」を意識して書きましょう!
来たな!っという感じの単刀直入なご質問ありがとうございました。ヒデさん。
それではこちらもズバッとお応えします.
論理的な文章を書くためには、
「整合性」
を意識してください。
「整合性」をコントロールできるようになれば、論理的な文章を書くことができます。
では、整合性とは何か?
まずはそこから説明しましょう。
「論理的な文章」とは、「整合性」のある文章のことである。
だいぶ簡潔なやりとりから始まりましたが(笑)、ちょっとスローダウンして、もう一度確認すると、
「論理的な文章」とは、「整合性」のある文章である。
ということころから話は始まります。
では、あらためて「整合性」とは何か?
それは、複数の項目間に「矛盾がないこと(無矛盾性)」「つじつまが合っていること(首尾一貫性)」です。
簡単に言うと「何かと何かがぴったり合っている感じ」ということになります。
いわゆる「論理的な文章」を読むときに感じるすっきり感、ぴったりくる感覚が「整合性」だと思ってください。
では、論理的な文章は、何と何の間に「整合性」が保たれているのでしょうか?
それは以下の三組です。
2,「言葉」と「それが指し示す現実」
3,「言葉」と「それが置かれる文脈」
1,「言葉」と「言葉」の間の整合性
まずは、「言葉」と「言葉」の間の整合性から説明しましょう。
この「言葉」と「言葉」の間の整合性とは、簡単に言うと「文法上の正しさ」だと思ってください。
たとえば、いま手元にある答案にこんな記述があります。
①「なぜその現象が発生する理由が分からないと、おそらく対応策を考えることは不可能だ。」
②「私はその時に、リーダーシップとは指示する相手が自分より年上であろうと、自信を持って一貫性のある指示を出すことが大切だと思いました。」
もうお分かりでしょうが、これは本来、
①’-A「なぜその現象が発生するのかが分からないと、おそらく対応策を考えることは不可能だろう」
あるいは、
①’-B「その現象が発生する理由が分からないと、おそらく対応策を考えることは不可能だろう」
そして、
②’-A「私はその時に、リーダーシップとは指示する相手が自分より年上であろうと、自信を持って一貫性のある指示を出すことだと思いました。」
あるいは、
②’-B「私はその時に、リーダーシップにおいては指示する相手が自分より年上であろうと、自信を持って一貫性のある指示を出すことが大事なのだと思いました。」
であるべき文です。いわゆる①が「呼応の副詞」の問題、②が「主述関係」の問題を含んだ悪文ですね。
このように、いわゆる「文法上の間違い」を含む文章は、「論理的な文章」とは言えません。
論理的な文章を書きたいのであれば、まずは文法的に正しい文を書く必要があります。
2,「言葉」と「それが指し示す現実」の間の整合性
つぎに意識するべきなのは、「言葉」と「それが指し示す現実」の間の整合性です。
「言葉」というのは記号です。
たとえば「犬」という言葉は、「人なつっこい四足歩行のワンワンと吠える動物」を指し示す記号として機能しています。
そして、この「言葉」と「それが指し示す現実」の結びつきは、非常に恣意的(いいかげん)なものなのです。
たとえば「普通」という言葉など、指し示す現実が使う人によって大きく異なる言葉の代表格です。
「普通の生活」「普通の人生」「普通の人間」etc.
これらの「普通」は、誰がどのような文脈で使うかによって、指し示す現実の方は、大きく異なるでしょう。
ですから、論理的な文章を書こうとするときは、その言葉がどういう意味で使われているかをきちんと定義し、そしてその文章の中ではその定義がぶれないよう注意してその言葉を使わなければなりません。
これを破ると、とたんに文章は整合性を失い、論理的でなくなります。
たとえば、いま手元に、以下のように「リーダーシップ」を定義した文があります。
1)リーダーシップとは、「仕事に対する責任の自覚」である。
2)リーダーシップとは、「部下の見本となること」である。
3)リーダーシップとは、「周囲の人に影響を及ぼし、組織目標を達成する力」である。
この定義自体は、よほど素っ頓狂なもので無い限り、正直どれでもかまいません。
その文章の中でその意味が一貫していれば問題ないのです。
ところがその定義が文章の中で「ブレる」と、一気に「非論理的」になります。
たとえば以下の文を見てください。
一見それらしい文にはなっていますが、よく考えると「持ったり」「意識して行動したり」「発揮して目標が達成」できる「リーダーシップ」とは一体何なのか、皆目見当がつきません(種明かしすると、上記文中の3つの「リーダーシップ」は順番に上記1)~3)の定義に対応しています)。
そんな馬鹿なと思うかもしれませんが、このように言葉の定義が意識されていない非論理的な文章は、あらゆるところにはびこっています。
また、単語レベルではなく、一定の長さの文章単位でも「言葉」と「それが指し示す現実」の間の齟齬(食い違い)が起こることがあります。
リーダーシップとは、集団構成メンバーが協調しあって集団全体の目標を遂行することができるようにするリーダーの働きである。つまり、メンバー一人一人が自身の持つ能力を十分発揮できるようにするのが、これからのリーダーの在り方である。(第2段落)
だからこそ、私はメンバーが私の指示に安心してついてこられるように、知識・技能の面で他のメンバーとは圧倒的な差をつけ、私のいうことであればメンバーがどんなことでも言うことを聞くくらいの体制を作りたい。それが私の目指すリーダーシップの発揮方法である。
第1段落の文章も、第2段落の文章も、単体で読めば十分「論理的」です。
しかし、それが指し示す現実どうしを付き合わせてみると、どうしても我々の経験との間に齟齬(くいちがい)が発生し、「論理的」に感じられなくなってしまうのです。
「協調」を旨とし、「メンバー一人一人が自身の持つ能力を十分発揮できるようにする」という目標と、「他のメンバーとは圧倒的な差をつけ、私のいうことであればメンバーがどんなことでも言うことを聞くくらいの体制を作」るという行動は、我々の経験則からは矛盾しています。(もしかしたらこの文章を書いた人の中には別種の論理があるのかもしれませんが)
「言葉」は、モノが存在するようには存在しません。それが指し示す現実とその都度契約を結ぶことで存在し、その契約の範囲で使われることではじめて適切に機能するのです。
この契約を破ったとたん、その言葉が含まれる文章は現実との「整合性」を失って、「論理的」ではなくなってしまうのです。
3,「言葉」と「それが置かれる文脈」の間の整合性
じつはこの、「言葉」と「それが置かれる文脈」の整合性をコントロールするのが一番難しいかもしれません。
なぜなら、その言葉を使う人と、その言葉を読む人の関係性を踏まえて言葉を使わなければならないからです。
たとえば今、目の前に9歳の息子が宿題で書いた作文があるのですが、その中に次のような一文がありました。
そしてこの一文は、私にとっては十分「論理的」なのですが、おそらく担任の先生やこの記事を読んでいる読者には「非論理的」で何のことだか分からないでしょう。
種明かしをすると、これは息子が毎週「週刊少年ジャンプ」のアンケートはがきを出しており、そのはがきをだすための切手を明日は買わなければならない、ということなのですが、そのことを知らない人には、何のことだか分からないはずです。
以下の図をごらんください。
青い部分が書き手と読み手で共有されている情報量です。
そしてざっくり言うと、コミュニケーションというのは、この情報量のギャップを埋めるために行われるものです。
共通の情報量が多ければ多いほど、その差を埋めるための言葉は少なくて済み(=私は息子の文の意味が分かり)、共通の情報量が少なければ少ないほど、その差を埋めるための言葉は多くなる(=他の人が息子の文の意味を理解するには補足説明が必要)ということになるのです。
(ちなみに、この共通の情報量が多い、文脈依存性の高いコミュニケーションのことを「ハイ・コンテクスト・コミュニケーション」、逆に共通の情報量が少ない、文脈依存性の低いコミュニケーションのことを「ロー・コンテクスト・コミュニケーション」と呼びます)
そしてこのようなお互いがもつ情報量の違いによる理解度の差(=同じ文が論理的に見えるか見えないかの差)による「誤解」は、あらゆる文章で起こりうることです。
たとえば、
- 専門家同士でないと理解できない文章
- 同じ組織に属している者同士でないと通じない文章
- 読者が素人だと思うあまり説明が詳しすぎて、かえって分かりづらい文章
これらは、相手がもつ情報量を見誤った時に発生する文章です。(そしてじつは一部の読者にとってはまったく問題の無い「論理的な文章」だったりするのでさらにやっかいなのです)
ですから、なるべく多くの人に自分の文章を「論理的」に感じてもらうためには、自分の文章を誰が読むのか(=言葉が置かれる文脈)をしっかり意識し、なるべく多くの人に配慮して文章を書く必要があるわけです。
ここまで読んで気がついた方もいらっしゃるかと思いますが、上記、三対の整合性を説明する時に私の頭の中にあるのは、Ch.W.モリスによる記号論の三領域、「統辞論」「意味論」「語用論」です。「論理的」とは、これら三つの領域で言葉が「整合的」に使われる状態と考えて私はこの文章を書きました。もちろん、今回の記事の説明は非常に「ざっくり」したものですが、彼の『記号理論の基礎』は、言葉が伝わる仕組みに興味のある人は必読の書です(我が青春の書でもあります)。もし、今回の記事内容に興味を抱いた方は、ぜひお読みください。(画像をクリックするとAmazonに飛びます)
では、どうすれば「論理的な文章」が書けるようになるか?
さて、「論理的な文章」と「整合性」の関係がつかめたところで、では、どうすれば論理的な文章、つまり整合性の高い文章が書けるようになるのでしょうか?
すでに予想がついているとは思うのですが、論理的な文章は「ちょっとしたコツ」をマスターすればすぐに書ける、というようなものではありません。
残念ながら地道な鍛錬が必要です。
とりあえず私がお勧めしているのは、以下の3つの作業を継続して行うことです。
- 論理的な文章を大量に読む・視写をする(インプット)
- 色々なことに疑問を持ち、論理的に考える癖をつける(アレンジメント)
- 自分の考えを文章にして、他人に見てもらい感想をもらう(アウトプット)
この作業は、小論文の練習の仕方とまったく同じ、情報の「インプット」「アレンジメント」「アウトプット」で構成されます。
1,論理的な文章を大量に読む・視写をする(インプット)
まず、論理的な文章を大量に読みましょう。そしてできれば「視写(見ながら写す)」ことをしてください。
でも、どれが論理的な文章か分からない?
はい、お気持ちはよく分かります。
でもあまり心配しないでください。私自身は、【これらの著者】をお勧めしていますが、あまり神経質になる必要はありません。いろいろな文章を上記3つの視点をもって読んで、それぞれの「整合性」を体感してください。
非常にすっきりして高い整合性を感じられる文章、もやもやしてすっきりしない文章、あらゆる文章を読むことで、自身の「鑑識眼」が高まります。
2,色々なことに疑問を持ち、論理的に考える癖をつける(アレンジメント)
そして、世の中のあらゆることに疑問をもち、どういうことなのかを考える習慣をつけることも大事です。
「なぜ?」を繰り返して、問題の本質を突き詰める「なぜなぜ分析」が有名ですが、目に見えるもののその奥にある因果を客観的に解きほぐそうとするときに論理的思考は鍛えられます。
その意味でも、他人の文章を読んだときに「もやもや」を感じたら、それは自身の論理的思考力を高めるよいチャンスです。
その文章が与える「もやもや」の正体は何か? ぜひ、考えてみてください。
3,自分の考えを文章にして、他人に見てもらい感想をもらう(アウトプット)
そして、最後はやはり実際に論理的な文章を書いてみることです。そしてその文章が的確に相手に伝わっているかを、だれかに読んでもらってフィードバック(感想)をもらうことです。
もうお分かりだと思いますが、絶対的に「論理的」な文章などありません。
言葉で伝わる内容は、書き手と読み手の関係性の間に立ち現れる蜃気楼のようなもの。
我々はその蜃気楼のような頼りない「像」を、なるべく明確にする努力をし続けなければなりません。
そのためには、上記三組の「整合性」を意識しながら文章を書くこと、そしてその文章がどれだけ自分の意図する形で相手に届いているかをチェックすることです。
だからこそ、なるべく多く、自身で論理的な文章を書き、なるべく多くの人にフィードバックをもらいましょう。
そうやって試行錯誤を繰り返すうちに、だんだんと多くの人に自分の言いたいことが伝わる「論理的な文章」が書けるようになります。
「論理的である」とは、生き方の問題である。
さて、ヒデさん、いかがだったでしょか?
論理的な文章の書き方(というか、論理的な文章を書けるようになるための方法)がお分かりいただけたでしょうか。
ちょっと大げさかもしれませんが、私自身は「論理的」とは、生き方の問題だと思っています。
世界を正しく理解し、偏りなく考え、的確に対象に働きかけようとする。
そういう姿勢を保とうとするのが「論理的」に生きることであり、その表れとして自身の使う言葉に「整合性」が備わるのではないかと思うのです。
そして、とことん論理的であろうとするからこそ、人間のかかえる矛盾と非論理性までいとおしく感じられる。(もちろんそれらにうんざりすることも同じくらい多いのですが(笑))
最後は直感的であまり論理的ではないかもしれませんが(笑)、私自身は、「サウイフモノニ ワタシハナリタイ(そういう者に私はなりたい)」と思って生きています。
一緒にがんばりましょう。