(以下の投稿は約3600字。読み終わるのに7~8分かかります。また、内容は2006年当時のものです)
●討論番組は見てられない
先日、たまたまチャンネルを合わせたら、朝まで生放送で討論を行う番組をやっていました。しかし私は、5分と見続けることができずに、局を変えました。
なぜ、見続けることができなかったのか?
それは、そこで繰り広げられている議論(?)があまりに“汚かった”からです。
人の話を最後まで聞かず、割り込んで大声で話す評論家。前の人の発言をまるっきり無視して、議論の流れを省みずに自説を延々としゃべりまくる大学教授。すぐにけんか腰になり、ほとんど人格攻撃ともいえる発言をくりかえすジャーナリスト。議論の整理と論点の明確化をするどころか、無秩序な放談をあおり立てるだけの司会者。
いい年した自称“文化人”たちが集まって、いったい何を求めて議論(らしきもの)をしているのか。
まさに「かたはらいたきもの」を見る思いで、私はチャンネルを変えたのです。
●コミュニケートできない国会議員
事情は国会でも変わりません。
先日行われたマンションの強度偽造問題の証人喚問でも、問題の建築士に鋭く迫れた国会議員はごくわずか。
なかには持ち時間の40分のうち30分以上、質問もせず、自説をとうとうと述べた議員もいました。
質問も“なまくら”で「指示を出した人物についてはどうですか?」とか、「罪の意識などについてはいかがですか?」など、ピントのぼけた質問が目白押しです。
なぜ、事実関係をはっきりさせるための質問なのに、答え方がいろいろになる「拡大質問」を使うのか。なぜ、「罪の意識“など”」という不必要な婉曲表現を使うのか。
今、自分が果たすべき役割を理解せず、事実を明らかにするためにどのような質問をするべきが分かっていない。
これでは、その後のマンション販売会社社長に「証言拒否」を連発されて、大事な部分をはぐらかされてしまうわけです。
●日本人の討論の病理
テレビの討論番組にせよ、国会の証人喚問にせよ、その“汚い”議論の根底には、以下の4つの病理が潜んでいます。
- 議論の「ゴール」が不明確
- 「番意識」が欠如している
- 意見と人間を混同してしまう
- 批判のための批判が多い
一つずつ説明しましょう。
1.議論の「ゴール」が不明確
議論の「ゴール」とは、その議論を通じて見いだすべき結論や状態のことです。
このゴールが不明確だと、議論は迷走をはじめます。
先ほどのテレビ番組のホームページによれば、私が5分と見続けていられなかったあの番組のタイトルは「激論! ホリエモンショックと日本」。これではテーマが大きすぎて何が議論されるのかさっぱり分かりません。
「ライブドア事件が今後の日本経済に与える影響は何か?」とか「ライブドア事件に関して政府に責任はあるか?」というテーマならば、何について話し合うのかが明確です。しかし、「ホリエモンショックと日本」では“何でもあり”になってしまいます。(実際、私が見ていた5分間に限って言えば、まさに“何でもあり”の状態でした)
2.「番意識」が欠如している
「番意識」というのは、「いま誰が発言するべきなのか」「今度はなにを発言するべきなのか」という問題意識のことです。
議論をする上で、この「番意識」は非常に重要な働きをします。
議論というのは意見と意見の応酬です。
一つの意見はそれ以前の意見との関連で意味づけられ、議論に参加する全員に共有されます。そしてその意見に対してさらにまた別の意見が積み重ねられて、議論は進展していくのです。
ですから、前の人の発言が終わる前に自分が発言するのはもってのほか。また、前の人の意見をふまえず、いままでの流れと関係のない意見を述べるのも議論を不毛にしてしまいます。
先ほどの国会の例で言えば、質問に立った議員には、「番意識」が欠如していました。その結果、その場で話すべき参考人が発言せず、質問だけで自分は多くを話すべきでない議員がとうとうとしゃべる、と言うような事態を招いたのです。
3.意見と人間を混同してしまう
本来、意見とそれを発した人物は分けて考えられるべきです。
それは議論の場で重要なのは、それを誰が言ったかではなく、その発言の内容そのものだからです。いくら自分とは違う主張をする人がいるからといって、その人の意見だけではなく、その人自身を批判するのは間違いです。
議論に参加した全員を、司会や書記といった役割による権限の違いを除いて、平等に扱う。「誰が」発言したかはいったん脇に置いて、発言の内容だけを検討する。そうしないと、論証不能な意見の論理的整合性以外の要素が入ってきて、とたんに議論が混沌としたものになってしまうのです。
たしかに、社会的地位の高い人の意見は納得しやすく、逆に社会的に問題ありとされる人の意見には納得しにくいでしょう。また、その意見を誰が言うかによって、受け入れやすく感じたり、逆に受け入れがたく感じたりすることもあります。好き嫌いの感情が発生すること自体はコントロールできません。また、その発言から発言者の人間性が推し量られることもあるでしょう。
しかし、寅さんではありませんが、議論の場では「それを言っちゃぁ、おしまいよ」です。
相手の人間性や相手の発言の意図は、論証不可能なのです。相手がどんな人で、どんな意図から発言したかなど、本人にしかわからないのです。しかも、それは議論そのものとは直接関係しませんし、そこに批判を加えようとしても水掛け論になるのがオチです。
その論証不可能なものを根拠に議論を行うことは、客観的な事実に基づかない、各自の信条をぶつけ合う、一種の宗教対立になってしまいます。そして「信じるもの」どうしの対立はつねに不毛な結果に終わるのです。何も生み出してはくれません。
4.批判のための批判が多い
「批判」というのは「いちゃもん」とは違います。
本来の批判とは、ある意見の問題点を指摘することによって、現実をよりよい方向に変える新しい意見を生みだす作業です。つまり、大事なのは新しい意見を生みだす作業の方であって、問題点の指摘はその前段階に過ぎないのです。逆にいえば、新しい意見=対案を生みだす覚悟のない批判は、批判のための批判、つまり、「いちゃもん」ということになります。
さきほどのテレビの討論番組で言えば、なんと「いちゃもん」の多かったことか。
相手の意見に、とにかく文句をつけ、けなす。かといって、つぎの自分の発言になんらかの対案が含まれるわけではない。これでは、議論が発展していかないのは当然でしょう。
●それでは“汚い”小論文とは?
さて、事情は小論文を書くときも同じです。
この4つの病理が答案に反映されると、以下のような症状が現れます。
- 核となる主張がない
- 他人の主張と自分の意見を混同する
- 意見の裏側にある人物を論ずる
- 提案なしの批判だけで終わっている
1.は「議論の『ゴール』が不明確」に対応します。なんのためにその小論文を書くのか、伝えたいことはなんなのか、つまり、答案作成の「ゴール」がはっきりしていないのです。
2.は「『番意識』が欠如している」に対応します。小論文の答案は資料文の筆者や、社会に流通している一般的な意見との擬似的な議論です。引用を行わず、どこまでが他人の意見で、どこからが自分の意見かを明らかにしない答案は、「いまどちらが発言しているのか」「この発言に対して次はなにを発言するべきか」という意識が欠けている答案なのです。
3.は、「意見と人間を混同してしまう」に対応します。先ほども言ったとおり、発言の裏にある人間性や、発言の意図は論証不可能です。資料文の筆者の人間性を論じたり、ある意見を持つ人の性格傾向について論じたりしてはいけないのです。
昔の人は「文は人なり」と言いました。しかし、小論文ではそう考えるべきではありません。「文は人ならず」なのです。
4.は「批判のための批判が多い」に対応します。資料文の主張や社会に流布する意見に対して、ただ問題点を指摘して終わってはいけません。かならず対案としての提案をおこないましょう。具体的に提案できない場合でも、方針くらいは書くべきです。
●実りある議論のために
さて、紙幅も残りわずかとなりました。最後に、実りある議論をわれわれが行うために、今までの話から必然的に導かれる4つの提案をしておきます。
《議論を実りあるものにするための4つの提案》
- 議論の「ゴール」を共有しよう
- 自分と他人の言葉を分けよう
- 意見と人物を分けよう
- 批判をするなら対案を出すつもりで
ぜひ、この提案をあなたの周りの人と共有することで、今後の議論を実りあるものにしていきましょう。(了)
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